《100万ドルのギタリスト》ジョニー・ウィンター(1944~2014)

[記事公開日]2013/9/2 [最終更新日]2018/9/12
[編集者]神崎聡

ジョニー・ウィンター(Johnny Winter。本名:John Dawson Winter III)氏は、テキサス州出身のブルースギタリストで、メジャーデビュー時の契約金が巨額だったことから「100万ドルのギタリスト」と呼ばれています。

白人の身で黒人音楽の「ブルース」にこだわり続けたことから、「黒人のコミュニティに本当の意味で初めて溶け込んだ白人ミュージシャン」だと伝えられています。ブルース界の大物マディ・ウォーターズ氏(黒人)に「俺の義理の息子」と呼ばれるほどでした。

生涯ブルースを愛し続け、エリック・クラプトン氏に多大な影響を及ぼしたと言われているほか後進への影響力は強く、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第74位、2011年の改訂版では第63位に選ばれています。今回は、このジョニー・ウィンター氏に注目してみましょう。


Johnny Winter – Good Time Woman (Live)
弾きまくるプレイスタイルの代表的なジョニー氏ですが、そこに味があるからこそです。かけっぱなしのコーラスに豪快な声、バリバリの演奏、いつの間にか消えて、またいつのまにか小指にはまっているスライドバー、3分半にわたって待たされるドラマー、見どころ充分です。

ジョニー・ウィンター氏の生涯

若いころからすごかった

ジョニー・ウィンター氏は、サックスとバンジョー奏者の父親、ピアノ奏者の母親の間に生まれ、クラリネット、ウクレレを経てギターを手にします。二歳下の弟エドガー・ウィンター氏はキーボードとサックスを得意とし、若いうちから兄弟でコンテストに出場して名を上げていきました。15歳の時には地元レーベルからレコードをリリースします。

1961年には、地元で開催されたB.B.キング氏(この時、すでに大物)の公演に飛び入りを果たします。ジョニー氏は当時17歳。客席から飛び入りを求める初対面の若者に対し、B.B.キング氏は「でも、オレの曲のアレンジを知らないだろう?」と詰め寄ります。しかしジョニー少年は「あなたのレコードは全部持っています。曲のアレンジも全部知っています」と食らいつき、ついに飛び入りの許しを得ます。手ぶらでステージに上がったジョニー少年はB.B.キング氏の愛器「ルシール」を借りて演奏、その演奏はスタンディングオベーションを受けました。少年漫画の一場面のようなこのエピソードは、若きジョニー・ウィンター氏の力量、またB.B.キング氏の器のでかさを物語るものとして語り継がれています。

1960年代終盤までの活動についてはあまり情報がありませんでしたが、現在で言うインディーズミュージシャンとして、兄弟でライブとレコーディングを重ねたようです。1968年に初のアルバム「The Progressive Blues Experiment」をリリースしてメジャーデビューを果たします。


Johnny Winter, Edgar Winter – Tobacco Road (Live)
ウィンター兄弟、若き日の共演。ジョニー氏はエピフォン社製の「ウィルシャー」を使用しています。この曲はウッドストックでも演奏されました。エドガー氏のサックスやオルガンも、ジョニー氏に負けないくらいの豪快さですね。

「100万ドルのギタリスト」襲名

1969年、高額の契約金でCBS社(1965年にフェンダー社を買収した)と契約を締結したことから「100万ドルのギタリスト」と呼ばれるようになります。この年はウッドストック・フェスティバルに出演、ジャムセッションで意気投合したジミ・ヘンドリクス氏とそのままレコーディング、というようにイベントに溢れていました。

あくる年の1970年、弟のエドガー・ウィンター氏が自身のバンドで活動することになったので、ジョニー氏はリック・デリンジャー氏らを迎えて新バンド「Johnny Winter And」を結成します。ブルース一直線だったジョニー氏のプレイはロックを吸収して進化していきますが、ここでヘロインに手を出してしまい、活動に急ブレーキがかかります。ヘロインには「死ななかったのは、運が良かっただけだ」と回想するほど依存し、廃人同様にまともな受け答えもできなかったようです。ヘロインの禁断症状では全身に極端な激痛が走りますが、ジョニー氏は鎮痛剤を常用してこれを抑え、1973年に新しいアルバムをリリースして復活を宣言します。


Johnny Winter – Rock & Roll (Audio)
復活ののろしを揚げたアルバム「Still Alive And Well(1973年)」より。「ロックを取り入れる」というコンセプトから、タイトルに「ロック」がつくナンバーが2曲、ロックバンド「ローリングストーンズ」のカバーが2曲収められています。

プロデューサーとしても活躍

このころ、ジョニー氏は「シカゴ・ブルースの父」として知られる大物マディ・ウォーターズ氏と出会います。クラブで演奏していたジョニー氏にマディ氏が声をかけてジャムセッションに至ったと伝えられますが、そこから二人は意気投合します。ジョニー氏はマディ氏のバンドでプレイするほかアルバムのプロデュースを任され、1977年の「Hard Again」から遺作となった1981年の「King Bee」まで、4枚のアルバムを手掛けます。晩年のマディ氏に対しては、音楽だけでなく生活面でも手助けをしていたと伝えられます。

マディ氏とのコラボを展開しながらもコンスタントに自身のアルバムを発表し続けたジョニー氏でしたが、1990年代辺りからはいろいろ忙しいのと体調が悪化したのとで、アルバムのリリースがいったん止まります。1992年のアルバム「ブルースは絆 (Hey, Where’s Your Brother? )」以来、次回作の発表に12年を要しました。その次のカバーアルバムにはさらに7年を要しています。その間にはエリック・クラプトン氏が主導する「クロスロード・フェスティヴァル(2007年、2010年)」、オールマン・ブラザーズバンド結成40周年記念ライブ(2009年)への出演を果たしましたが、さすがに自身の衰えを感じたジョニー氏は引退を考えます。これをB.B.キング氏に相談したところ「俺より20歳も若いお前が引退などと!弱音を吐くな!」と渇を入れられ、続投を決意します。

「最後の大物」の来日、そして

ジョニー氏の来日公演はなかなか実現せず、「来日していない最後の大物」と呼ばれていたこともあります。1990年には日本ツアーが組まれましたが、急遽中止となってしまいました。ヘロインの禁断症状を抑える鎮痛剤「メタドン」が日本では禁止されており、これを常用するジョニー氏本人が入国できなかったためです。しかしその後、ヘロイン中毒から完全に立ち直ることに成功し、メタドンの服用も終了したことから、2011年4月、ついに来日公演が実現します。その後2012年5月、2014年4月にも来日していますが、2014年7月、スイスのチューリッヒにて亡くなります。享年70。死因は明らかにされていません。

引退を考えたことこそあれ、ジョニー氏はブルースギタリストとして生涯現役を貫きました。

ジョニー氏の遺作となったカバーアルバム「ステップ・バック〜ルーツ2」には、

ら名だたる名手が参加したことも手伝い大いにヒットし、翌年のグラミー賞で「最優秀ブルース・アルバム賞」を受賞しました。プロデュース作品での受賞こそあれジョニー氏自身のグラミー受賞はこれが初めてで、亡き兄に代わってエドガー・ウィンター氏がトロフィーを受け取りました。

ジョニー・ウィンター氏と関わった重要人物

ミュージシャンは、様々な仲間との関わりで音楽を作ります。ジョニー・ウィンター氏も数々のプレイヤーと関わってきましたが、ここでは特に重要な三人を見ていきましょう。

エドガー・ウィンター

エドガー・ウィンター(Edgar Winter)氏はジョニー・ウィンター氏の弟で、ボーカル、ピアノ、キーボード、サックス、パーカッションをこなすマルチプレイヤーです。ジョニー・ウィンター氏のインディーズ時代から2ndアルバムまでは兄弟で活動していましたが、兄に一年遅れる1970年にソロデビュー、自身の活動を始めます。

ひたすらブルースを追求する兄に対して、エドガー氏はジャズやR&Bなど他ジャンルの音楽を取り入れる柔軟なスタイルをとっています。代表曲「フランケンシュタイン」は、器楽曲としては異例の「全米ナンバーワン(1973年)」を勝ち取りました。

https://youtu.be/B6KihYDw_hA
Edgar Winter – Frankenstein – 12/16/1981 – Capitol Theatre (Official)
「首から下げるタイプのキーボード」は、そうとう重かったのだろうと想像できます。現代のショルキー(ショルダー・キーボード。英語ではKeytar)とは一線を画すかなり珍しいスタイルですが、歩き回りながら両手が使えるのがメリットです。肩肘を張って両手でキーボードを弾く様子は、たしかにフランケンシュタインに見えなくもない感じですね。エドガー氏は、キーボードも弾いて、サックスも吹いて、パーカッションも叩いて、やりたい放題です。

リック・デリンジャー

リック・デリンジャー(Rick Derringer)氏は、ジョニー&エドガー・ウィンター兄弟と活動したギタリスト/ボーカリストで、プロデューサーとしてグラミー賞を受賞したこともあります。「ジョニー・ウィンター・アンド」在籍時の楽曲「 Rock and Roll、Hoochie Koo 」のセルフカバーでチャート1位になるほか、スティーリー・ダン、トッド・ラングレン氏、アル・ヤンコビック氏らと活動を展開しました。

出生名は「リッキー・ディーン・ゼーリンガー」でしたが、メジャーデビューする時に語感の近い「デリンジャー(Derrinder:小型拳銃)」をアーティスト名に採用しています。


Air Supply – Making Love Out Of Nothing At All
「エア・サプライ」は1980年代に活躍したいわゆるソフト・ロックバンドです。「渚の誓い」という邦題が付けられたこの曲で、リック・デリンジャー氏はリードギターとして客演しています。かたくなにブルースにこだわってきたジョニー氏と違い、リック氏は時代にマッチしたサウンドを出し続けています。

マディ・ウォーターズ

晩年の4作品でジョニー氏のプロデュースを受けたマディ・ウォーターズ(Muddy Waters。1913~1983)氏は、シカゴでバンドスタイルのブルースを展開したことから「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれた伝説的なミュージシャンです。生涯で6度のグラミー賞を受け(うち3回はジョニー氏のプロデュース)、没後にロックの殿堂入りを果たします。味のあるスライドギターを得意とするブルースの第一人者として有名ですが、ロック系のミュージシャンからも厚い支持を受けており、その影響力は計り知れないと伝えられています。自身に売り込みをかけてきた若きチャック・ベリー氏のアーティスト性を見抜いてレコード会社を紹介したのも、このマディ氏です。


Muddy Waters – Mannish Boy (Audio)
ジョニー氏が初めてマディ氏をプロデュースしたアルバム「Hard Again」より。ジョニー氏はギターだけでなく、「スクリーミング(叫び)」でも参加しています。マディ氏のボーカルの合間に、イイ具合に「Yeah!!」という掛け声を放り込んでくるのがジョニー氏です

ジョニー・ウィンター氏のプレイスタイル

180cmの長身にして体重50kg台の超スレンダーな体形、両腕にはバリっとタトゥー、そして帽子をかぶるのが、ジョニー・ウィンター氏の基本スタイルです。いつも帽子をかぶるのはテキサス野郎だからでもありますが、ジョニー氏はメラニン色素を持たない「アルビノ」なので、強い光が苦手だからだと伝えられています。

ジョニー氏は金属製のサムピックをいつも使用し、普通のフレーズは親指のダウンピッキングで、弦飛びやストラミング(かき鳴らす)には他の指を使います。ダウン・アップピッキングに及ぶこともありますが、この時はサムピックを深く握り込んで縦ぎみに使用します。最初の師匠がカントリーのプレイヤーだったため、サムピックはギターを始めた時から使用しています。人前で披露したことはありませんでしたが、カントリーやポップスなどあらゆるスタイルの演奏ができて、とくにチェット・アトキンス氏のスタイルが際立ってウマかったたと伝えられています。

いわゆる一般的なブルースのフレージングは伸ばす音を多用し、間(ま)をしっかり取るものが多いですが、ジョニー氏はこれと対照的で、チョーキングを巧妙に絡めた豪快なフレーズを次々と繰り出します。いわゆる「弾きまくる」というスタイルですが、フレーズのバリエーションが大変多く、情報量の多い演奏です。この景気のいい弾きっぷりが、後進のロックギタリストに大きく影響したと伝えられています。

ジョニー氏の歌声も重要な要素です。荒々しい歌い方は「ギターの豪快さがそのまま声になったようだ」と言われることもあります。


Johnny Winter – Be Careful with a Fool (Audio)
1969年、デビューしたばかりでバリバリの時のジョニー氏の演奏。たいへん景気のいい弾きっぷりですが、ギターに負けないワイルドなボーカルもあってこそのジョニー・ウィンター氏です。

ジョニー・ウィンター氏の使用機材

若いころには

等を使用していました。

トレードマークとして知られるギブソン・ファイアーバードは1973年ころから使い始めていますが、やはりトレモロは外しています。ストラトキャスターの音が好きでどうにか使いこなそうとしたことがあったのですが、調整や改造をやりつくしてなお感触が気に入らず、リック・デリンジャー氏にプレゼントしてしまいました。

1980年代中盤から終生メインギターにしてきたのが、アールワイン(Earlwine)社の「レイザー(The Laser)」というヘッドレスギターです。軽くて音が良いことがお気に入りとのことで、「これまで見てきた中で、ストラトみたいに響きギブソンの感触で弾けるという自分の理想に一番近い(The closest thing I’ve found sounding like a Strat & feeling like a Gibson)」というコメントを遺しています。弦はダダリオの0.10~0.46で、晩年は一音下げチューニングを多用しました。

レイザーが一軍起用されてからも、ファイアーバードはスライド専用機として使われました。スライドをする時のチューニングは「オープンE」や「オープンA」をメインに「オープンD」やオープンG」、またレギュラーチューニングや一音下げチューニングも使用します。スライドバーは既製品ではなく、自分に合うものをさんざん探した結果ようやくたどり着いたという配管用の導管を30年以上愛用しました。

アンプはミュージックマン社の「HD410」を長らく愛用し、セッティングは
「トレブル10、ミドル/ベースは0、ギター側のボリューム/トーンは全開」
というかなり思い切ったものでした。エフェクターはBOSSの「CE-2(コーラス)」一個、という潔さです。


Johnny Winter – Death Letter
かのロバート・ジョンソン氏が師とあおぐサン・ハウス氏の代表曲。ライブでアコギを使うことはありませんでしたが、レコーディングではヴィンテージの「ナショナル(リゾネイター・ギター)」がたくさん起用されます。

ジョニー・ウィンター氏の関連作品

ドキュメンタリー映画「ダウン&ダーティー(2014)」

Johnny Winter Down & DirtyJohnny Winter Down & Dirty

2012年のツアーに密着したドキュメンタリー映画で、ジョニー氏本人とプロデューサー/ギタリスト、ポール・ネルソン氏のインタビューを中心に、ジョー・ペリー氏(エアロスミス)やビリー・ギボンズ氏(ZZトップ)、デレク・トラックス氏ら多くのギタリストのコメント、B.B.キング氏やマディ・ウォーターズ氏との共演映像、来日公演の模様などが収録されています。アルビノとして生まれたゆえの差別や視覚障害の苦悩、鳴り物入りのデビューからドラッグでの転落、そして復活を遂げたジョニー氏の人生を垣間見ることができます。


Johnny Winter Down & Dirty Trailer 2016 — Film Out March 4, 2016
DVD版には特典映像として、本編に収めきれなかったインタビューや演奏風景などが60分以上収録されています。

アルバム

CBSデビューアルバム「Johnny Winter(1969年)」

Johnny Winter

「100万ドルのギタリスト」の名を世に知らしめたCBSデビューアルバム。トリオを基本としたシンプルなサウンドだからこそ、徹頭徹尾ジョニー・ウィンター節を堪能できます。歌っている時にもギターがガンガン吠えてくるため、常人の感覚では「このギターとボーカルが同一人物で、しかもライブで成立できる」ということが信じられないくらい。

ロックを取りいれた代表作「Still Alive And Well(1973年)」

Still Alive And Well

ヘロイン中毒による急ブレーキから見事に復活。3年間の沈黙を破って発表された本作は、豪快かつ的確なギタープレイはそのままに、オーバードライブサウンドとキャッチーなリフを堪能できる、ロックテイストあふれる1枚として仕上がっています。ローリング・ストーンズのカバーが2曲も入っているほか、聞かせるナンバーもあり、聴きごたえ十分。

プロデュース作品「Hard Again/Muddy Waters(1977年)」

Hard Again Muddy Waters

ジョニー氏を「義理の息子」と慕うマディをプロデュースした、いわば親子共演の1枚目。ジョニー氏は随所でギターを弾いているほか、「スクリーミング(叫び)」を放り込む役割を果たしています。商業的にも成功したアルバムで、マディ・ウォーターズ氏にとって4回目のグラミー受賞作品となりました。

スーパープレイヤーに彩られた遺作「ステップ・バック〜ルーツ2(Step Back。2014年)」

Johnny Winter Step Back

ジョニー氏の没後にリリースされ遺作となったカバー集。一曲ごとに様々な名手とのコラボレーションが展開されます。このようなアルバムは1枚でいろんなプレイヤーの演奏を聞くことができるので、音楽の勉強にもうってつけです。

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