《静謐な音色に込める、反骨の精神》The Durutti Column

[記事公開日]2025/1/26 [最終更新日]2025/2/10
[ライター]小林健悟 [編集者]神崎聡

Durutti Column
Time Was Gigantic… When We Were Kids (1998)

「ザ・ドゥルッティ・コラム(The Durutti Column)」は、1978年に英国の大都市マンチェスターで立ち上げられた、ギター奏者ヴィニ・ライリー氏のソロプロジェクトです。氏の音楽はポストパンクというカテゴリに入れられる事がありますが、クリーンかつエレガントなギターサウンドが特徴で、多様な要素を吸収した奥深い音楽性が英国のインディーズシーンで熱烈に支持されています。著名プロデューサー、ブライアン・イーノ氏は「LC (1981年)」を最高のアルバムとして挙げ、Red Hot Chili Peppers所属のジョン・フルシアンテ氏はライリー氏を「世界最高のギタリスト」と評するなど、知る人ぞ知るアーティストです。


The Durutti Column – Otis (Visualiser)

小林健悟

ライター
ギター教室「The Guitar Road」 主宰
小林 健悟

名古屋大学法学部政治学科卒業、YAMAHAポピュラーミュージックスクール「PROコース」修了。平成9年からギター講師を始め、現在では7会場に展開、在籍生は百名を超える。エレキギターとアコースティックギターを赤川力(BANANA、冬野ユミ)に、クラシックギターを山口莉奈に師事。児童文学作家、浅川かよ子の孫。

エレキギター博士

ガイド
エレキギター博士
コンテンツ制作チーム

webサイト「エレキギター博士」を2006年より運営。現役のミュージシャンやバンドマンを中心に、自社検証と専門家の声を取り入れながら、プレイヤーのための情報提供を念頭に日々コンテンツを制作中。

バンド名に託す「パンク精神」


Feature History – Spanish Civil War
スペイン戦争(1936~1939)は左派共和国人民戦線政府と右派反乱軍との内戦で、ピカソが描いたゲルニカの空爆でも知られる。無政府主義の革命家ボナベントゥラ・ドルティは人民戦線政府側に加勢、6,000人を擁するドルティ部隊(Durruti Column)を率いて活躍したが、マドリード防衛戦で没する。死後のドルティはアナーキズムや革命的精神の象徴として神格化された。なお、内戦は反乱軍が勝利し、ファシズム政権が誕生した。

ヴィニ・ライリー氏のサウンドは静かで透明感があり、優しくすらあります。それゆえ革命家の率いた民兵部隊に由来するバンド名には、一定の不自然さを覚えるかもしれません。しかしライリー氏はパンク精神を持った人物であり、言動や音楽の随所にその片鱗が伺えます。「The Durutti Column」というバンド名は、サウンドからは理解しにくい、内面に秘めたパンク精神を標榜しているのです。

パンク精神は自由や平等、個性の尊重、自助と自立を基礎に、国家や宗教など権威や権力の拒絶(アナーキズム)、主要メディアによって作られた状況の否定(シチュアシオニスト思想)、反商業主義、反消費主義、反戦、反人種差別、反性差別などを訴える、今ある巨大なものに抵抗する思想です。音楽をはじめとする各種アート、また環境保護や動物の権利保護などの社会活動にも影響を及ぼしました。

The Durutti Column (Vini Reilly)の歩み

ヴィニ・ライリー(Vincent Gerard “Vini” Reilly )氏は1953年、イギリスの大都市マンチェスターで生まれます。エンジニアとして働く父親はポップスが嫌いで、クラシックやジャズを愛聴しました。5人の子供にテレビを見せなかったこともあり、少年時代のライリー氏は友達との話についていけなかったようです。

ライリー氏は幼少期からピアノを始め、戦前のアメリカンジャズに影響されます。その後10歳から習い始めたギターに夢中になり、寝室にこもって延々と練習します。サッカーの才能もありマンチェスター・シティFCのトライアルを受けていますが、音楽に専念するため入団を断っています。父親の影響でクラシックやジャズ、フォークソングを愛聴したライリー氏でしたが、1970年代のパンク・ムーブメントに感化され、パンクバンド「The Nosebleeds(鼻血)」を結成します。シングル盤を1万枚も売り上げましたが、ファッション化したパンクに幻滅したライリー氏は脱退します。

なおこのThe Nosebleedsからは、ライリー氏のほかモリッシー氏(ザ・スミス)、ビリー・ダフィー氏(ザ・カルト)、トビー・トーマン氏(プライマル・スクリーム)ら、数々の著名アーティストが輩出しています。

レコーディング前夜にバンド解散からの、ソロプロジェクトとして再始動


The Durutti Column – Sketch For A Summer
デビューアルバム「The Return of The Durutti Column(1980)」のオープニングを飾る1曲。ディストーションなんか使わない、ピックなんか使わない、多数派に流されない反骨の精神。これぞパンク。

ミスター・マンチェスターの異名をとる有名人トニー・ウィルソン氏らが集めた6人で結成されたポストパンクバンドが、最初期のThe Durutti Columnです。ライリー氏はツインギターの一翼として加入し、腕を振るいました。ウィルソン氏は自主ライブの運営などマネージャーとして奔走し、興行の成功をもって伝説的なインディーズ・レーベル「Factory Records」を立ち上げます。その第一作となるコンピレーションアルバムに、The Durutti Columnは2曲で参加しています。

しかしデビュー・アルバムのレコーディング前夜、The Durutti Columnは解散します。解散理由は「音楽性の違い」と見られますが、ウィルソン氏らはラリー氏を説得、バンドはラリー氏のソロプロジェクトとして仕切り直すことになりました。そこからの約30年間に20枚のスタジオアルバム、4枚のライブアルバムなど安定的にリリースを重ねますが、2010年に1回目の脳卒中を発症、活動に急ブレーキがかかります。

トニー・ウィルソンとFactory Records


Darkness Here
トニー・ウィルソン氏の早すぎる訃報を受け、The Durutti Columnは追悼の意を込めたアルバムを発表。いつも「お前は歌わない方が良い」と苦言を呈していたウィルソン氏を偲び、全曲インストゥルメントとなっている。

トニー・ウィルソン(Anthony Howard Wilson, 1950-2007)氏はバンド立ち上げからマネジメント、レコーディングなどThe Durutti Columnに深くかかわり続けた重要人物です。TV番組のMCからキャリアをスタートさせた氏は業務を通して知ったセックス・ピストルズに感化され、司会業を続けながらも音楽に没頭、インディーズレーベル「Factory Records」ほかナイトクラブの運営、自主興行の開催など幅広く手掛けます。マンチェスターの音楽文化振興に大きく貢献した業績から「ミスター・マンチェスター」と呼ばれました。

Factory Recordsは著名なバンドをいくつも手掛けた伝説的なレーベルでしたが、反商業主義から音楽シーンを追わず、製作費を惜しむこともなかったため赤字を積み上げることもあり、また自助と自立の精神から作品の権利の一切を所属アーティストに渡してしまう、パンクな一面もありました。

3度もの脳卒中


The Durutti Column – My Country
1989年作品。何百という作品の中で唯一と言われる、明確に政治的なテーマの演目。市場原理を優先して福祉を抑制する、当時の政策を嘆いている。

2010年から2011年にかけて、ラリー氏は3度の脳卒中に見舞われます。3度目にはさすがにギターも弾けなくなり、生活保護や障害者手当の手続きで待たされる18ヶ月という間に未払いの家賃を積み上げてしまいます。その危機を救ったのは、ファンからの寄付でした。

はじめライリー氏は持ち前のパンク精神から、同じ境遇にあって支援者のいない人が何千人もいるのに、有名人の自分だけが寄付を受けるのは特権乱用だと寄付を断ろうとしました。しかしファンの心意気に撃たれ、ありがたく受け取った上で新しくアルバムを作り、売り上げで返そうとします。新しい神経経路を構築しようと毎日の練習を重ねましたが、脳内に響く音楽を演奏するには至らず、12年を経た2023年、ついに引退を決心します。

The Durutti Column (Vini Reilly)の演奏スタイル


Durutti Column – The Missing Boy (Live 1984)
亡き友に捧げる、初期の名曲。ディレイは8分音符。

ヴィニ・ライリー氏の演奏スタイルは、クリーンで透明感のある音色、フィンガーピッキング、最小限の音で豊かな音楽表現、の3つに集約されます。ギターサウンドはクリーンからごく僅かに歪んだクランチまでで、ディレイやエコーとの組み合わせで広がりと透明感を帯びています。フィンガーピッキングで紡ぎだされる弦振動の優しさと甘さも手伝い、氏の音色は「淡い水彩画のようだ」と表現されます。

ボーカルをとることもありますが、その時は歌唱というよりポツポツとつぶやくようなスタイルです。

変幻自在のフィンガーピッキング

フィンガーピッキングにはジャズ、クラシック、フラメンコなど幅広いジャンルの要素が盛り込まれており、親指でベースパートを弾きながら他の指でリフやメロディを弾いたり、人差指をピックに見立ててオルタネイト・ピッキングをしたり、また猛烈に掻き鳴らしたりと多彩です。音楽性は柔軟であり、オペラやハウスミュージックを取り入れることもあり、打ち込みやサンプリングを採用することもあります。

人も機材も最小限

また「最小限」ということに深いこだわりがあり、エフェクターはディレイのみ、ギターとドラムの二人だけでもライブ出演してしまうほどです。しかしその作品はご自身が「全て数学的に説明できる」と豪語するほどに緻密であり、またその一方で誰かに語りかけたり何かを表現したりといった情緒に溢れています。身近な人への想いを曲にすることも多く、タイトルには知り合いや恋人の名前が多く使用されます。

The Durutti Column (Vini Reilly)の使用機材


Durutti Column – Jacqueline – Hacienda 1987
この動画では、ロック式トレモロを備えるフェンダー・ストラトキャスターを使用。ピアノはライブでもレコーディングでも使用する。

ヴィニ・ライリー氏はフェンダー・ストラトキャスターギブソン・レスポール・カスタムを愛用しました。ストラトキャスターでは多くの場合リア+センターのハーフトーン、レスポール・カスタムではミックスポジションを使用しています。ドライブサウンドをほぼ使用せず、美しいクリーントーンを重視することからアンプはフェンダーが基本で、ローランドJC-120を使用することもあり、またローランドRE-201を多く起用しました。

The Durutti Column (Vini Reilly)の名盤

ライリー氏は出来事や人々から受けたインスピレーションをギターに投影するタイプであり、世界に向けて何かを発信するとか何かを主張するとかといった演目はほとんどありません。それゆえThe Durutti Columnの演目は主観的であり内向的で、あたかもライリー氏の心情をそのままのぞき込んでいるかのようです。

The Return of the Durutti Column (1980)


The Durutti Column – Requiem For A Father
ライリー氏の父親は、氏が16歳の時に他界している。

記念すべきデビューアルバム。最初に発行した2,000部のパッケージはサンドペーパーで作られており、取りだすたびに隣を傷つける仕様でした。この凶暴な外装に反し、収められている音楽はリズムトラックとギター1本のみという最小限の編成で、独特の透明な世界観を展開しています。プロデュースを担当したマーティン・ハネット氏はマンチェスターの音楽シーンを牽引した功労者として知られており、本作ではバックトラックのプログラミングやギターにかけるエコーの設定をしています。レコーディングはスタジオにこもって模索する形で進行しましたが、ハネット氏は機材の操作に熱中するあまりライリー氏の存在を失念するまでにいたり、ライリー氏がブチ切れる一幕もありました。しかし後になってライリー氏は、ハネット氏がこの作品にアイデンティティを与えたと述懐しています。

LC(1981)


The Durutti Column – Sketch For Dawn (I)

のちに著名プロデューサー、ブライアン・イーノ氏が「最高のアルバム」として挙げた第2作で、タイトルはラテン語で「闘争は続く」を意味する Lotta Continua が由来。この作品に参加したドラマー、ブルース・ミッチェル氏はライリー氏と相性が良かったようで、ドラマーとしてもマネージャーとしてもライリー氏を支えていきます。

ライリー氏がインスピレーションに任せて5時間ほど、手持ちの4トラックレコーダーに吹き込んだギターやボーカルに後からドラムを被せるという作り方をしています。そのため所々でテープエコーやテープ式レコーダーのヒスノイズが確認できる、何とも言えない手作り感のある作品です。しかしだからこその、名手が感覚に任せて紡ぎ出した音の生々しさが伝わってきます。

Viva Hate/ Morrissey(1988)


Margaret on the Guillotine (2011 Remaster)
この演目でマーガレット・サッチャー首相の死を「素晴らしい夢」と表現したたことで、モリッシー氏は特別捜査局から尋問を受けることになった。

ロックバンド「The Smiths」で名を馳せたヴォーカリスト、モリッシー氏のソロデビューアルバムで、UKアルバムチャートでは1位を記録しています。この作品でライリー氏はギタリストとして腕前を発揮、独特の世界観を構築しました。ライリー氏にとってこの仕事はとても良い経験だったようで、特別で、面白くて、クレイジーな時間だったと述懐しています。しかし次のアルバム制作で再びオファーされたときには、同じことを繰り返したくはないという理由できっぱりと断っています。

Someone Else’s Party (2003)


Spasmic Fairy
ドラムの代わりに本や紙を叩いた音を使っている。

危篤の母を思い、自宅でレコーディングしたという作品。ギターサウンドの透明感は維持しながらも収録曲は陰鬱な雰囲気で満たされており、目前に迫る母親との別れをどう受け止めるべきかが伝わってきます。のちにライリー氏は、アルバムにするつもりで作ったのではなく、大好きな母親に死が迫る状況に対峙し、心の中に溜まったネガティブな感情を解放して精神を浄化するための反応として制作したと語っています。この普遍的とも言えるテーマには、多くの共感が寄せられました。

A Paean To Wilson(2010)


Brother
マーヴィン・ゲイ氏の名曲「What’s Going On」のサンプリングを使用している。

「これは芸術なのか、それとも君はただの技術者なのか? (Is this an art form,or are you just a technician?)」というトニー・ウィルソン氏の問いかけから始まる、ウィルソン氏を追悼するための作品。時に厳しく、時に優しくライリー氏を支えた、またお前は口を閉じてギターで歌うべきだと訴え続けたウィルソン氏に敬意を表し、このアルバムでは一言も歌っていません。極限まで音数を削ぎ落したドラム、またしばしば挿入されるサンプリングが、ライリー氏の抱く郷愁の念を強力に演出しています。


以上、The Durutti Columnで独自の世界観を展開したヴィニ・ライリー氏について、その歩みやスタイルなどいろいろなことをチェックしていきました。サウンドもファッションも、いわゆるパンクとは全く異なるアーティストです。しかしそんな「いわゆるパンク」のお手本に追従するファッションパンクを拒絶する氏の音楽には、強力なパンク精神が感じられます。透明なサウンドの向こうに垣間見えるライリー氏のパンク精神、ぜひいろいろとチェックしてみてください。

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