ジョニー・ラモーン(Johnny Ramone)

[記事公開日]2013/8/30 [最終更新日]2017/3/13
[編集者]神崎聡

ジョニー・ラモーン(Johnny Ramone)

ジョニー・ラモーンはパンク・ロック創世記の最重要バンド「ラモーンズ」のギタリスト。
01年にジョーイ・ラモーン(vo)が、02年にはディー・ディー・ラモーン(b)、そして04年9月15日、ジョニー・ラモーン(g)が亡くなりました。リーダー的存在のジョニーが死んだことで、ラモーンズはこれで完全に終焉を迎えたといっていいでしょう。

ラモーンズこそはパンクの元祖でした。彼らが出てきた70年代中頃といえば、ロックがある程度まで熟成していた時代でした。ベトナム戦争が終結し、反戦運動やフラーワームーブメントは過去のものとなり、公民権運動も一応の成果を上げ、学生運動は敗退し、世が安定を取り戻しつつありましたが、アメリカやヨーロッパでは失業率があがり経済的には低迷するという事態に陥っていました。

ロックでは、ストーンズのように、かつては町のチンピラ同然の無頼の輩だったグループがスーパースターとなり、プログレシブロックのようにコンセプトを持った音楽が熟成し、他の音楽との融合を進めて芸術としての域に入っていった者も存在するような状況となっていました。ビックグループはミリオンセラーで巨万の富を築き、反体制の象徴だった彼らが、もはやそうではなくなっていたのです。


Ramones – Touring

そんな中、ニューヨークから火を噴いたのがパンクでした。ラモーンズは3コード、多くて4コードしか使わない曲構成で、単純なカッティングのみによる2分そこそこの短い曲を荒々しく演奏していました。犯罪、貧困、ドラックが渦巻く不安定なニューヨークを象徴するかのような演奏は、停滞が始まっていた既存のロックを叩き壊すほどのパワーを持っていました。
ラモーンズの音は、大衆化してビジネスと化していたロックに反旗を翻すだけのパワーがあり、世の中に不満を覚えるアンダーグラウンドの若者にすぐさま受け入れられ、カリスマ的な人気を得ることになります。まだメジャーデビューしていない76年に、イギリスツアーが組まれるほど、アンダーグラウンド・シーンでは頭抜けた人気がありました。そのイギリスツアーがロンドンのアンダーグラウンド・シーンにパンクの火をつけ、後にイギリスでパンクが爆発的に隆盛することになります。

叙情性や展開などを完全に無視したストレートな激しい2分間の楽曲は、ロックが本来持っている本能的なモノをぶちまけたような魅力が存在したのです。
ブロンディ、トーキング・ヘッズなども同じようにニューヨークのパンククラブの出身ですが、後にその音楽は変化していくことになります。しかし、ラモーンズは90年代後半に活動を停止するまで、同じスタイルを保ち続けていました。

ジョニー・ラモーンは前立腺がんで帰らぬ人となりましたが、その臨終には家族とともに、パール・ジャムのエディ・ベダー、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテなどがいっしょに看取ったと言われています。こういったミュージシャンがその場にいたというのは、彼らの音楽がどれだけ後続のミュージシャンに大きな影響を与えていたかを物語っています。

Biography

ブロンズ像 LAに建てられたブロンズ像

1951年10月8日 生 米ニューヨーク州クイーンズ

ニューヨークのクイーンズ区に住んでいたジョーイ(ボーカル)、ジョニー(ギター)、ディー・ディー(ベース)、トミー(ドラム)の4人により結成されました。 1976年『ラモーンズの激情』(“The Ramones”)でメジャーデビュー。 1978年にトミーが脱退しマーキーが加入(トミーはその後も裏方としてバンドに関わる)。1983年にマーキーが脱退しリッチーが加入するも1987年に脱退、マーキーが再加入。その後1988年にディー・ディーがラップミュージックの道に進むため脱退し、翌年C・Jが加入という具合に、メンバーの入れ替わりが4回ありました。


Ramones – Poison Heart

21枚のアルバムを残して1996年に解散。デビュー作から3作目までのアルバムは、ロック史上に残る重要なアルバムと評価されています。1979年に発表した7作目のアルバム『エンド・オブ・ザ・センチュリー』(フィル・スペクターがプロデュースを担当)はラモーンズの最大のヒットアルバムとなり、現在も大リーグの試合でこのアルバムの曲が演奏されるなど、アメリカ人に深く浸透しています。
ラモーンズの音楽はデビューから解散まで一貫しており、シンプルでキャッチーなメロディー、コードは3~4つのみを使用、ダウンストローク一辺倒のギターリフ、リズムは8ビート中心という、極めてシンプルでスピーディーな短い曲ばかりです。トレードマークである革ジャン、ジーンズ、モズライト(ジョニーの使用ギター)というスタイルも解散まで貫き通しました。
一連のポリシーや音楽の評価はアメリカよりもイギリスのほうが高く、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュらのロンドン・パンクに大きな影響を与えました。
2006年には中南米で人気が盛り上がり、マーキー・ラモーン単独で2万人規模のコンサートが開催された。

ギタープレイの特徴

ジョニー・ラモーン(Johnny Ramone)の使用エレキギター

ジョニー・ラモーンのギター・プレイは、ちょっとギターの素養があればすぐにでもできそうなシンプルなパワーコードと単純なフレーズの連続です。しかし生涯に渡りそれを徹底的にやりまくっていたところに彼の凄さがあります。

使用機材

使用エレキギター

トレードマークであるモズライトはリア・ピックアップにディマジオのFS-1を搭載。モズライトがベンチャーズなどのサーフサウンドだけでなくパンクにも使えるエレキギターであることをジョニーが証明してくれました。

使用ギターアンプ

Marshall(マーシャル) JCM-800 にアンプ直という男らしいセッティングです。

Discography

Ramones(邦題:ラモーンズの激情)名盤

ラモーンズの激情

破れまくったジーンズとライダーズ・ジャケット、マッシュルーム・カットを半年くらい伸ばしっぱなしにしたヘアスタイルのむさい男4人が叩きつける高速のスリーコード・ロックンロール。その後、20年以上に渡って「偉大なるワンパターン」を繰り返しながら、世界中のパンク・バンドからのリスペクトを受けづけることになるラモーンズのデビュー・アルバム。

ニューヨークのアンダーグランドシーンから発生した彼らのプリミティヴなロック・サウンドは、テクニックばかりが重視されがちだった70年代のアメリカの音楽シーンに新鮮なショックを与えるとともにロックンロールが持つ本質的な魅力を取り戻すことになりました。異様な興奮を呼び起こすポップ・メロ、まるでアメリカン・コミックから飛び出てきたようなメンバーのキャラ。

1976年リリース作品

Leave Home

Leave Home/Ramones

ラモーンズのアルバムでは、1stや3rdが名盤とされがちですが、ポップな2ndの本作品も見逃せません。NYドールズやストゥージス、MC5に影響を受けつつも、フレディキャノンや60年代のガールズグループのシャングリラスなんかをリスペクトしているとこが表れていてキャッチーな曲が多く1stや3rd同様アガります。50~70年代のロックを吸収し自分達のスタイルを確立したパンクバンドは他にはないでしょう。60sサーフバンド、リヴィエラズのカバー「カリフォルニアサン」収録。

1977年リリース作品

Rocket to Russia名盤

Rocket to Russia/Ramones

初期の最高傑作。とにかく楽曲が良い。基本理念は不変のバンドですが、今回からメジャー・プロダクションに移行したせいもあり、サウンドに貫禄がついてきました。ベスト盤に入っていない良曲も多数。

1977年リリース作品

Road to Ruin

Road to Ruin/Ramones

人気の高い名盤で彼等の代表作の一枚。このアルバムからドラムがマーキー・ラモーンに移り、そのかいあって曲のピッチがまた1つ上ったように思えます。

1978年リリース作品

End of the Century

End of the Century/Ramones

フィルスペクターのプロデュースによるラモーンズの作品の中では恐らく一番ポップという形容詞がふさわしい作品。コアなファンはハードなサウンドを期待して、この作品を手放しで褒めないこともある気がしますが好きものもいます。ラモーンズのメロディアスでロマンチックな部分が前面に出ている一作。

1980年リリース作品

Too Tough to Die

Too Tough to Die/Ramones

商業的なメタルやニューウェイブが流行っていた80年代。ロックのあるべき姿を貫き通すラモーンズは贅肉無しでガリガリな1stアルバムさながらのタイトな今作品を発表。ハードでエッジを利かせながらもメロディアスな展開、強いメッセージ性、秀逸なハードコアナンバーも収録。「殺しても死なないぜ」というキーワードは多のフォロワーに継承されています。

1984年リリース作品


Ramones – Substitute

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