ジェリー・ガルシア(Jerry Garcia)

[記事公開日]2019/4/11 [最終更新日]2019/4/15
[ライター]小林健悟 [編集者]神崎聡

ジェリー・ガルシア(Jerry Garcia)

ジェリー・ガルシア氏はアメリカのロックバンド「グレイトフル・デッド(The Grateful Dead)」を率いたギタリストで、むさ苦しい風貌と幅広い音楽性を持っていました。「精神的支柱」、「活動の原動力」としてグレイトフル・デッドを率いるかたわら、ソロやセッションなどサイドプロジェクトも精力的に展開しました。自由と愛と平和に溢れたメッセージと生き様は「ヒッピー・ムーヴメントの代表」として、今なお絶対的な存在感を持っています。

グレイトフル・デッドは30年間に渡る活動の中で20枚を越えるアルバムのレコーディング、歴史的な規模・驚異的な回数のコンサート・ツアーを行い、中にはエジプト、ピラミッド前でのコンサートなどもあります。また、コンサートでは録音も自由、そのテープを交換することもOKといったスタンスも特徴的であり、彼らもファンも非常に純粋な志を持つ温かい集団でした。特に熱心なファンは愛情を込めて「デッド・ヘッズ」と呼ばれています。

日本ではサイケデリックなイメージが先行していましたが、彼らの活動とメッセージによって、音楽の枠を越えて文化や精神性にまで、現代に影響を及ぼしています。今回は、ジェリー・ガルシア氏とグレイトフル・デッドについて、かいつまんでチェックしてみましょう。


Blow Away – Philadelphia 7/7/89

Biography

幼年期

ジェリー氏は1942年、プロミュージシャンの父、ピアノ愛好家の母のもと、サンフランシスコに誕生します。作曲家ジェローム・カーン氏の名をとり「ジェローム」と名付けられ、幼いころより音楽を浴び、ピアノのレッスンを受けます。ところが4歳の時、キャンプ中の事故で右手中指の2/3を失ってしまいます。このままピアノを弾くのはかなり困難になってしまいましたが、ジェリー少年は意に介さず、むしろその指を友達に見せびらかしていました。

音楽への目覚め

小学3年生のころ、ジェリー少年はブルーグラス/カントリーミュージックに目覚め、バンジョーを始めます。また5年生のころには、ロックンロール/リズムアンドブルースにハマっていきます。チャック・ベリー氏とボ・ディドリー氏への憧れが高まり、エレキギターをやりたい気持ちが強まります。ピアノ愛好家の母親をいかに説得するかが最大の課題でしたが、15歳になって遂に、念願のエレキギターを手に入れます。
高校では授業をサボったり喧嘩したりという問題児でしたが、バンドコンテストで優勝したこともあります。18歳の時には母親の車を盗んで乗り回した罰で陸軍に入隊させられますが、素行が悪く、その年の年末には除隊させられます。

徐々に仲間が集まっていく

陸軍を除隊してほどなく(1961年2月)、ジェリー氏は大きな自動車事故に遭います。ジェリー氏の乗る自動車が時速90マイル(約145キロ)でガードレールに衝突、助手席に乗っていたジェリー氏はその勢いで前方へ放り出されます。幸い軽症で済んだジェリー氏は、この事故が「自分の人生が始まった」契機だとして人生を方向転換させ、本気でギターに取り組む決意をします。
ジェリー氏はいろいろなバンドで演奏し、その過程で出会った気の合う仲間とバンドを結成します。メンバーは徐々に増えていき、ジェリー氏が辞書で見つけたという「グレイトフル・デッド」の名が1965年から定着します。

グレイトフル・デッドの「エンドレス・ツアー」

ジェリー氏が亡くなる1995年までの30年間というものほぼ毎年行われたツアーは「エンドレス・ツアー」と呼ばれ、ライブは2,314回に上ります。「ひと月に6回以上を30年間」という計算になりますが、バンドの活動休止期間が少々ありますから、活動中のペースはもっと激しいものでした
そのライブはと言えば、2時間越えは当たり前、長ければ7~8時間という公演時間、曲順表はなく、始まって音を出しながら曲を探っていくという、ひじょうに即興性の高いものでした。演者も観客も、その日のライブで何が演奏されるか分からない、「毎回のライブが唯一無二の体験」であることが支持され、年間の観客動員数は常にベスト10にランクインしていたと言われます。

伝説のPAシステム「ウォール・オブ・サウンド」

グレイトフル・デッドの歴史は、PAシステム発展の歴史でもありました。音響スタッフは自然発生的に議論を繰り返し、ライブの音響をよりよくするために模索を続けました。最も特徴的なPAシステムは、ステージ背面にその名の通り壁のようにスピーカーを積み上げた「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」です。現在ではありえないコンセプトですが、

  • 中音(なかおと):ステージ上でミュージシャンが聞く自分の音。
  • 外音(そとおと):客席で観客が聴く音。

この二つを統合し、「演者も観客も同じ音を聞く」こと、かつ気持ちの良い大音量を味わうことを目指しました。最大でスピーカーユニット600台とツイーターユニット50台をアンプ50台で鳴らし、消費電力は2万8千ワットあったといいます。1972年から1974年の2年間しか使われませんでしたが、「音の壁」は今でも伝説として語り継がれています。

60年代カウンターカルチャーの代表

ジェリー氏らグレイトフル・デッドが拠点としたヘイトアシュベリー( Haight-Ashbury/カリフォルニア州サンフランシスコ)は、当時のカウンターカルチャー(=主流の文化的慣習に反する文化。サブカルチャー。)「ヒッピー文化」発祥の地であり、現在でもヒッピーの聖地として知られています。ジェリー氏はヒッピーのカリスマ的存在として絶大な支持を集めており、グレイトフル・デッドは「ウッドストック・フェスティバル」にも出演します。

死、そして。

晩年のジェリー氏は糖尿病、ヘロインおよびコカインの中毒で苦しみ、1995年8月、カリフォルニアの薬物リハビリ施設内で心臓発作により帰らぬ人となります。氏の葬儀には約25,000人が参列し、遺灰はガンジス川とサンフランシスコ湾に散骨されます。氏の死を受けてバンドはいったん解散しますが、ジェリー氏の遺志を継いだメンバーらはその後も「ザ・デッド」の名で活動を継続しています。

ジェリー・ガルシア氏のプレイスタイル

生前のジェリー氏は、グレイトフル・デッドの活動に加えてソロアルバムを発表したり他のミュージシャンのアルバムに参加したりするなど、数多くのサイドプロジェクトを手掛けました。パートはギターとヴォーカルにとどまらず、ペダルスチール、バンジョー、時にピアノまで担当しています。セッションする相手や演奏する楽曲に応じて、ブルーグラス、ロック、フォーク、ブルース、カントリー、ジャズ、ゴスペル、ファンク、レゲエといったテイストを使い分ける、並々ならぬ幅の広さを持っていました。
「曲順までも即興を貫いた」というグレイトフル・デッドでは、迷路を手探りで進んでいくようなライブのさなか、ジェリー氏は最も敏感に流れを感じ取ったうえで、最も自由に演奏を展開していたと評されます。氏の情熱的なアドリブは手グセというよりその瞬間瞬間で作曲していくようなもので、美しい旋律がどんどん出てきます。なお、ご本人は自分のスタイルをブルース、ロック、カントリーと考えていたようです。

ジェリー・ガルシア氏の使用したギター

Doug Irwin Tiger
Tiger

1972年ころまでのジェリー氏は、ギブソン・レスポール、ギブソン・SG、フェンダー・ストラトキャスターなどいろいろなギターを使用していました。しかしター製作家ダグ・アーウィン氏と出会った1972年以降、アーウィン氏によるカスタムギターがメインになります。ジェリー氏はアーウィン作を何本か使ってきましたが、その中でも「ウルフ」と「タイガー」の2本は格別に有名です。タイガーは13.5ポンド(約6キログラム)にもなる重量級のギターでしたが、約11年間、メインを務めました。
この二本は

  • ボディ/ネックともに何枚もの木材を重ねた積層構造
  • 独特のボディシェイプ
  • プリアンプカバーに描かれた狼や虎

が目を弾く特徴ですが、最大の特徴は、「エフェクトループ内蔵」にあります。エフェクターで作った音を、ギター側のボリュームで操作できるわけです。コンプレッサーや歪みなど、かかり方が入力に依存するエフェクトのかかり具合を変化させることなく、音量やトーンを操作できます。


図その1:一般的なセッティング。ボリュームポットからエフェクター、ボリュームペダル、そしてアンプへ。
ボリュームポットの絞り方次第で、エフェクトのかかり具合は変化する。ボリュームペダルを使うと、かかり具合はそのままで音量を操作できる。


図その2:ギターにセンド/リターンが備わっている場合。ピックアップおよびプリアンプからエフェクター、ギターのボリューム、そしてアンプへ。エフェクトのかかり具合を変えず、ギター側から音量を操作できる。


Not Fade Away (Rich Stadium – Orchard Park, NY 7/4/89)
間奏でのギター/キーボードの掛け合いが見どころ。懸命な表情のブレント・ミッドランド氏(Key)とニッコニコなジェリー氏の対比が面白い。

Discography

ザ・グレイトフル・デッド

ザ・グレイトフル・デッド/The Grateful Dead

Live Deadがほとんどジャムを展開したDeadのライブにをける真髄をみせた作品だったのに対し、こちらはほとんどの曲がコンパクトにまとまったもの。このアルバムはDeadが長時間にわたるジャムだけでなくカバーセンス、ソングライティングにおいても一流のバンドであったことがわかる作品。

1967年リリース作品

Anthem Of The Sun(邦題:太陽の賛歌)

Anthem Of The Sun(邦題:太陽の賛歌)/The Grateful Dead

レコーディングはライヴ音源にスタジオで音を重ね、さらにスタジオ録音曲をつなぎ合わせるという、後のザッパやキング・クリムゾンのような録音方法で行われている。アシッド的な幻惑的サウンドをうまく作りだしているのが特徴。エレクトリック期のマイルス・デイヴィスに影響を与えたと言われている重要なアルバム。

1968年リリース作品

Aoxomoxoa名盤

Aoxomoxoa/The Grateful Dead

ジャケットを含め、サイケ色が一番高いアルバムだが、初期デッドのスタジオ・アルバムとしては最高傑作といえる内容。「セント・ステファン」や「チャイナ・キャット・サンフラワー」は後のライヴでも定番レパートリーとなる代表曲。また、70年代初期を思わせるカントリー路線の曲や、奇妙なアレンジのサイケ然とした曲などバラエティに富んでいる。

1969年リリース作品

Live/Dead名盤

Live/Dead/The Grateful Dead

ライヴ・バンドとしての評価を確立していたデッドの最高の瞬間をとらえた名盤として名高い一枚。収録されている7曲のうち、過去のアルバムでの既発表曲は1曲のみで、しかもほとんどの曲が長尺曲ばかりと、当時のライヴ・アルバムとしては前代未聞だった。1曲目の「ダーク・スター」でのギター・インプロヴィゼーションは名演中の名演で必聴。

1969年リリース作品

Workingman’s Dead

Workingman's Dead/The Grateful Dead

70年6月発売の本作はデッド初のゴールド・ディスクに輝いたヒット作。前作の『ライヴ・デッド』でのインプロヴィゼーション主体の演奏から一転し、ルーツに回帰したようなフォーク、カントリー路線は当時から賛否両論で、そのあまりにもゆるい演奏には批判的な意見も多い。1曲目の「アンクル・ジョンズ・バンド」「ケイシー・ジョーンズ」などの代表曲を収録。

1970年リリース作品

American Beauty名盤

American Beauty/The Grateful Dead

前作『ワーキングマンズ・デッド』でのカントリーロック路線をさらに突き進んだ、70年発表の名作。セルフプロデュースにより前作よりもさらに厚みをもったサウンドとなっているが、焦点はあくまでも「歌」に合わせられています。メロディとコーラスワークのすばらしさはもちろん、控えめでいながら耳を奪われてしまうバッキングも絶妙。ジェリー・ガルシアによる職人的アルペジオが紡ぎだす深みのある美しい響きと、渋く滑らかな大人のスライド、そして全体を包む相変わらずの浮遊感がたまらない。

1970年リリース作品

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